東京から岡山へ、Uターンで「仏を彫る」生き方を選んだ元教師【前篇】 「彫るということは三次元を三次元として表せばよい」

【インタビュー】
東京から岡山へ。教師から仏師へ―Uターンで"仏を彫る"生き方を選んだ人・伊久利幸さん
(前半)

世の中には実に様々な職業が存在するが、その中には、何をどうやって仕事にしているのか、そもそもで、どうやったらなれるのかさえもわからない仕事も少なくない。この度、そうした"一風変わった職業"の中から、仏像を彫ることを生業とする"仏師"に着目。その知られざる世界を垣間見ることにした。

今回インタビューに応じてくれたのは、高校教師から農業を経て、なんとも意外な形で仏像制作の道へと進むことになったという、岡山県在住の伊久利幸(これひさ・としゆき)さんだ。

前後半、2回にわけてお送りするこのインタビュー。前半では、東京から故郷・岡山へのUターンを決めたきっかけや、Uターン生活、仏像制作との出会いについて語ってくれた。


―はじめまして、よろしくお願い致します。

こちらこそ。

―伊久さんは、現在、仏師としてご活動されているとのことですが?

まず、"仏師"という言葉は私にとっては抵抗があります。というのも、私の場合は、師について、内弟子、外弟子、つまり弟子として、叩き上げたイメージが強いからで、言うなれば、師と生徒の関係だからです。

―なるほど、それは失礼致しました。とことで、現在はどのような形でご活動されていらっしゃるのですか?

今年の3月までは4年がかりで、岡山県備前市にある大滝山実相院の十二神将...つまり、薬師如来を守る12人の神将を彫らせていただいたのですが、それが終わって、今は11月下旬の「仏師、隆鳳と仏像彫刻を楽しむ仲間たち展」(岡山市天神山文化センター)に向けて、わらべ地蔵とわらべ雲水を彫っているところです。あとは、それと並行する形で、中宮寺の弥勒菩薩の模刻を手掛けています。

十二神将・アニラ大将(未神)・・岡山県備前市大滝山実相院蔵

十二神将・アンチラ大将(申神)・・・岡山県備前市大滝山実相院蔵

―大忙しの毎日ですね。ちなみに、伊久さんは、もともとなぜ、仏像を彫るようになられたのでしょう?

私の場合は、57歳まで東京都内の某男子高の教師でした。当時は授業を行いながら、生徒が中心になる形で、アルミ缶を集めてネパールに教育援助するボランティア活動(NGO活動)を10年以上やっていました。そこへ机上の勉強のみに重きを置く人間的に欠落した校長がやってきて...もっとも、これは私の主観ですが。生徒からは掃除のゴミを校長室に投げ込まれるは、「校長室」のプレートは割られて捨てられるは...。私も校長とは折り合いが悪くなり、シュタイナー教育を持ち出してきた時、鼻で笑ってやって、とっとと辞めた...と。それがそもそもの始まりです。

―それはなかなかカッコいいというか、今風に言えば、パンクな生き様ですね。学校をお辞めになられて、どうされたのですか?

年老いた母が田舎で一人暮らしでしたし、ここで学校を辞めても、4、5年は一緒に暮らせるだろうか...と、そんな状況もあったので、57歳で早期退職して、生まれ故郷である岡山の片田舎へUターンすることになったんですね。ところが、田畑はあるものの、ナマクラな体に成り果てて、百姓仕事ができる体ではなかったんですよ。でも、桃の木があったので桃づくりをやったり、空いた所では里芋や黒豆などの栽培をやることにしました。

―なるほど、早期退職の後のUターンを機に、農業をはじめられたというわけですね。

ええ。でも、いずれも夏のさなかの仕事が多いですから、何度も倒れそうになってしまうんです。今でもそうだが、体には応えます。そうした生活ですから、今でも当時の生徒たちからは心配の声が届くこともあって...(苦笑)。...ありがたい話です。
―長年、都会暮らしをご経験された後でのUターンというのは、とても興味深いですし、戻ってからの暮らしについては様々な人にとっての参考になると思います。実際に、どのような暮らし向きでしたか?

正直なところ、早期退職して年金生活に入るまでは、退職金を食いつぶす状態でした。桃ができれば、わずかばかりの金が入り、栗が出来れば栗を売り、柿が出来れば柿を売って、生活費に入れるという感じです。なにせ、自分の場合は、農業収入が年間7万ほどですから、「牛肉が食いたくなったので、柿でも売るか...」などと、近所の人々に冗談を飛ばしながら、「田畑あれば何とかなるさ」的な生き方をしていました。それから10年以上の時間が過ぎましたが、結果、「田畑あれば金がかかるだけ、青空で野菜、果物を買った方が生活は楽」という考えに変わりましたね。でも、まだ懲りずに低農薬で桃や野菜を作っているんです。だから今は、午前中は彫刻、夕方から畑仕事と生活のリズムが出来上がりました。

―そうした暮らしの中で、仏像との出会いがあったということでしょうか?

ええ、そんな暮らしをしばらく続けていたのですが、ある時、我が家の裏にある阿弥陀堂の小さな阿弥陀像の修復話が持ち上がって、仏師と称する人が見に来たんです。作務衣姿の方でしたでしょうか。その方は耳が不自由で、言葉も聞き取りにくかったのですが、その時、「フムフム...なるほど...」と、訳もわからず何か納得しましてね。それで阿弥陀様の修復が終わったときに、「仏像彫刻、やってみたいのですが...」と訊ねてみると、その方は「家に、2人習いに来ていますよ」と。これはまさに阿弥陀様のめぐり合わせとでも言うべきでしょうかね、それから週1回、2年ほどは欠かすことなく通うことになったんです。その方が、今は、わが師である仏師・長谷川隆鳳なんです。

―ちょっと変わった出会いだったんですね。一般的に仏師には、どのようにしてなれるものなのでしょう?

芸術系の大学の仏像彫刻科があるところへ行くか、仏師の弟子になるか、仏師が経営する学校に入るか、だと思います。ただし、釣り針を付けないで糸を垂らし釣り続ける太公望のような心境が必要だと思います。つまり、彫ることが好きであること、途中で諦めないほど好きであることが必要だと思いますね。

仏像以外の制作品

―かなり気長にやっていくお仕事なのですね...もともと彫ることはお好きだったんですか?

ええ、以前から彫刻は好きだったし身近なものに感じていました。なので、簡単な花や柿などは彫っていたのですが、なにか物足りなくて...。挑戦したい気持ちが湧いてきたのだと思います。
我々が住む三次元を二次元の絵にする方が本当は難しいはずです。彫るということは、三次元を三次元として表せばよいのですから。学校教育が、紙と鉛筆があればできる絵を優先したのかどうかわかりませんが、在るがままを、在るがままの形で表現する方が、人間として本当は自然だし、楽だと思うのですが、いかがでしょう?

―うーん、我々には難しいですね。そもそも仏像を彫るということ自体、手順も想像つきづらいですし...。それで、弟子入りしてから仏像を制作されるようになった、と?

いやいや、いきなり仏像を彫るなんてとんでもない!(苦笑)。まず模様掘りから始まり、先生のOKが出れば、次に左右の手、握り手、開き手が基本。OKが出れば、左右の足。OKが出れば次に顔、釈迦、阿弥陀仏、観音、不動明王、等々。それらのOKが出て、やっと、百済観音や釈迦如来、観音立像などを彫らせてもらえる。ここまで来るのに1年はみておいた方がよいでしょう。というのも、基本を身に着けておかないと顔と体、脚バランスが悪くなったり、出来上がった時に立たないでひっくり返ったりするからです。

仏像については、まず、彫る前には四角い材に縦の中心線を引き、横線は足下を0、額口を10として升目を入れるところからスタートです。次に4面に形(絵)を写し、鋸で不要な部分を切り落とす。ここから彫りに入ります。粗彫りで大まかな形を彫り出し、ほぼ、姿が現れたところで仕上げの彫り に入るわけです。大仏師といえどもインスピレーションで彫る人は、まずいないでしょう。わが師も、松久宗琳の「京都仏像彫刻研究所」に入門して、独立したての頃、観音100体彫ったことが山陽新聞に取り上げられていました。

―いやはや、たしかに気の長い作業ですね...聞くだけで頭がクラクラしてしまいそうです。完成までかなり時間がかかりそうですね。

私の場合、台座、光背、本体が35センチ程度の物で3ヶ月から半年。仏師と称する人なら、あまり細かい模様の注文がなければ 、1ヶ月から3ヶ月で仕上げると思います。


後半に続く(8月21日掲載予定)。

取材/聞き手・鈴木将義

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